きっかけ
マンガを読んでいるとき、ページをめくる手が止まらない。涙が出る。笑いが止まらない。胸の奥がカッと熱くなる。そんな体験をしたとき、私たちの脳では何が起きているのでしょうか。
マンガを読んでいるときの脳の働きには、まだ分かっていないことが多くあります。感動は語れても、なぜ感動するのかは分からない。没入感は伝えられても、脳の中で何が起きているのかは見えない。コアミックスと東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授らによる共同研究プロジェクトは、2019年に始まりました。
脳の中を、のぞく
研究の舞台は、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)の装置の中です。被験者はスキャナーに横たわり、特殊なゴーグルを通じてマンガを読みます。その瞬間、脳のどの部位が、どのように活動しているのか。研究チームは、その微細な変化を一つひとつ記録していきました。単なる「好き・嫌い」の調査ではありません。脳科学の手法で、マンガを読むという行為そのものを解剖する試みです。

7年間、五つの問い
7年間の研究は、一つのテーマに留まりませんでした。2019〜2021年度は「共感」の定量化に取り組み、読者がキャラクターに心を寄せる瞬間の脳活動領域を特定しました。2021〜2022年度には、モノクロ漫画における脳内の「カラー補完」という驚くべき現象が明らかになります。続く2022〜2023年度はカラーとモノクロ、見開きと単ページといった表現形式の違いを比較し、2023〜2024年度では紙媒体が記憶の想起に与える影響を確認しました。そして2024〜2025年度、研究は「紙の本と電子書籍、どちらが脳にとって優しいか」という社会的な問いに行き着きます。
白黒の中に、色がある
2021〜2022年度に明らかになったのは、モノクロ漫画における脳内の「カラー補完」です。白黒の画面を見ているにもかかわらず、脳の色認識領域である「紡錘状回」が、カラー漫画を読んでいる時と同等に活性化していたのです。
視覚情報は白黒です。しかし脳は、過去の経験をもとに自動的に色を補完していました。モノクロだからこそ、読者の脳が能動的に情報を補い没入感が高まる。日本のマンガ文化が長年育んできた表現形式の奥深さが、脳科学の言葉で裏付けられた瞬間でした。
紙が、脳を助ける
7年目を迎えた2024〜2025年度の研究は、さらに社会的な問いへと踏み込みました。テーマは「紙の本と電子書籍、どちらが脳にとって優しいか」です。
被験者の大学生・大学院生25名は、前半を「紙の本」または「電子タブレット」のいずれかで読んだ後、MRI内で後半を読み進めます。同じ出来事を男女2人の視点から描く「ザッピング・ストーリー」形式は、高度な文脈統合の能力を測るのに適した作品でした。
結果は明確でした。タブレット条件では、前後半の情報を統合して解く設問への応答時間が有意に長く、脳に過剰な認知的負荷がかかっていることが示されました。一方、紙条件では、言語理解の中核を担う「左脳の言語野」や「右前頭葉」の活動が有意に抑制されていました。
これは、脳が疲弊していたのではありません。省エネ化して動いていたのです。
ここで注意したいのは、脳活動が「増える」ことがそのまま「脳に良い」ことを意味する分けではありません。紙の本が持つ物理的な厚みやコマの位置情報が、脳内の記憶インデックスとして機能し、脳の余分な活動を抑えることで思考を助けていた。研究チームはこれを「労力不要の組織化」と呼びます。
こうして、2019年から2025年まで7年間続いたコアミックスと東京大学の共同研究は、一つの区切りを迎えました。その集大成となる成果は2026年6月、国際学術誌『PLOS One』に掲載され、国内外のメディアで広く報じられました。

マンガから、人間理解へ
7年間の研究を通じて見えてきたのは、マンガという表現形式の特異な力だけではありません。人が物語を読むとき、脳の中で何が起きているのか。共感とは何か。没入とは何か。記憶とは何か。
それは、マンガに限った問いではありません。人間が物語を通じて他者を理解し、感情を共有し、世界を認識するという、普遍的なメカニズムへの問いです。
コアミックスと東京大学の共同研究は、マンガという入口から、人間そのものの探究へと歩みを進めました。マンガという身近な文化を入口に、人間そのものを考えていく。それもまた、私たちが「マンガを科学する」理由のひとつです。

